きむら内科医院の歴史

【感謝】きむら内科医院が開業して40余年。もう少しで、半世紀。ここまでの道のりは、神戸、須磨の皆さんとの歴史です。「信頼」は、皆さんが創ってくださった「信頼」です。皆さんがくださった「まごころ」です。私達は そんな皆さんに、笑顔で応えるだけで、只々一生懸命でした。医院の歴史を振り返って、あらためまして、神戸の皆さんに心から感謝申し上げます。ほんとうに、ありがとうございます。最初の看護師 木村 映胡

白川台のはじまりと供に

昭和40年前後の神戸市は、ポートアイランド造成中で山を削り、海を埋め立てている最中。
そんな真っただ中で、きむら内科医院は開業いたしました。
当初は白川台も、さながら西部劇の荒野のような有様で皆から「あんな所で開業して食べていけるのか」と心配されたものです。
当時、院長は日中、別の病院で勤務医として働き、一年ほどは夜間診療のみの開業でしたが、猫の子一匹来ない日も多くありました。

しかし、一年後には人口も増加して、昼間も開業できるようになりました。
昭和45年当時、白川台の人口は300人余り、昭和50年には急速に入居者が増加して1万人にも達しました。
昭和51年、神戸の都心から市営地下鉄が開通し、最寄りの地下鉄名谷駅へは市バスで5分、
三宮へは名谷駅から19分と交通の便もよくなりました。名谷駅は、今では三宮駅に次いで乗降者数2番目の駅です。

この周辺には歴史ある白川村があります。
その昔、平家物語ゆかりの源義経の鵯越(ひよどりごえ)を先導したと言い伝えのある鷲尾三郎旧家もあります。
前院長が昭和47年より校医を担当した白川小学校は、昭和45年10月に団地ができるまで、この白川村にありました。
昭和46年4月に現在地白川台7丁目に新校舎が完成し移転、当初は100人にも満たない児童数でしたが、
急速な建設が進み、その後1日に何百人もの転入生があり、たちまち1000人を超えました。
白川小学校は平成25年に創立140周年を迎えます。
現院長も白川小学校を卒業し、そして校医を継承させていただいています。

歴史はこうして繋がっていくものなのですね。

ニュータウンには歴史もふるさとも無いと言われたこともありましたが、
ここで生まれ育った人達が次世代を担う若者に成長して、
今、このニュータウンは皆のふるさとになっています。

きむら内科医院の歩み

昭和46年6月1日 須磨区白川台6丁目
開業 木村 政美(当時37歳)
PM5:00~PM8:00の夜間診療のみで、日中は勤務医でした。


昭和47年4月病院退職
開始 午前診療AM9:00~PM12:00
    午後診療PM5:00~PM8:00
随時 胃透視 AM8:30~AM9:00
    注腸 PM12:30~

スタッフは、医師、看護師、事務員、各1名。
私、木村映胡が最初の看護師でした。


昭和48年5月 看護師1名採用することができました。

石田 早苗さん(当時20歳)
一日も休むことなく当医院のために心血を注いで頑張ってくれました。
今も彼女は木村内科医院の看板(現師長)として働いています。

石田 早苗看護師は、1995年神戸市医師会会長より
“ともしび賞”(ナイチンゲール賞の神戸版)を受賞しました。


当時、院長は校医6校を担当させていただきました。
(白川小学校、松尾小学校、東落合小学校、私立白川台幼稚園、
公立しらかわ幼稚園、神戸女子大学)
この頃、白川小学校の児童数が1000人を超え、
次々に東白川小学校、東落合小学校が新設されました。
校医6校の健診、予防接種、医師会活動と、ほんとうに多忙でした。
午後からの定期往診(10人前後の患者さん)も、
決して欠かすことはありませんでした。

昭和49年12月29日 現院長 木村 明裕誕生。
誕生前日の患者数は300人を超えました。この月のレセプト数は2000枚を数え、
その後40年間この記録を破ることはありません。まさに、神戸急成長の時代でした。

昭和51年 開院5周年第一回慰安旅行(伊勢)
ようやく、初めての慰安旅行ができました。
あっという間の5年間、束の間の骨休み、おつかれさまでした。


昭和54年7月1日 現在地ニューライフ白川台西棟に移転しました。
もっとたくさんの患者さんにお応えするための場所です。
スタッフも、医師1名、看護師6名、事務員3名、薬局2名に増えました。
患者数は一日約200人を数えました。

レトロな車が昭和を感じさせます。

昭和56年 レセプトコンピューターを導入しました。患者さんとの時間をもっと増やしたい、
そんな気持ちから業務効率アップのためのコンピューターです。
実は、この時のインストラクターが、そのまま当医院に採用になりました。
現在も電子カルテに対応し、常勤として働いています。人の出会いはおもしろいものですね。


昭和56年7月10日
神戸市医師会の活動で発足した、日本初の「訪問入浴サービス」に尽力しました。
最初の患者さんは当院の患者さんで、マスコミにも大きく取り上げられました。


昭和62年7月7日
神戸市北区に「しあわせの村」が開村されました。
当時の市長永年の夢「ノーマライゼーションの生きる町 神戸」を
スローガンに10年の歳月をかけたプロジェクトです。
院長も神戸市医師会副会長としてメンバーの一員として加わっていました。
ここは、阪神・淡路大震災時には多くの被災者の方の避難所ともなった場所のひとつです。
今も日本中からの見学の人が跡を絶ちません。

平成7年 阪神・淡路大震災発生
(1995年1月17日 午前5時46分 死者6400名 最大震度7)
私達がしなければいけないことを、心から、痛感した時でした。
当院の被害は少なかったのですが、ライフライン、特に水道の復旧に時間がかかり給水にとても困窮しました。
そんな時、親切な患者さん達が遠くから毎日お水を運んでくださりました。きむら内科医院の水道は患者さん達に
治療していただきました。
そのおかげで、診療で不自由をおかけすることはありませんでした。
皆さんの“まごころ”は忘れません。本当に感謝しています。

当時、前院長は震災発生直後より当院で平常通り診療を続けながら休日も泊まり込みで救急活動に奔走しました。

平成17年11月 文部科学大臣賞受賞
平成18年 神戸市医師会最高功労賞受賞(神戸市医師会設立50周年式典にて)
このような、いくつかの受賞は、ありがたい、嬉しいひとときでした。

平成20年 木村 明裕 週3回勤務するようになりました。


平成21年 院内リフォーム、30年振りの衣更えです。
また、ヘリカルCT導入、レントゲン装置、エコー装置入れ替えなど、
新しい医療機器もどんどん整っていきました。

平成22年4月1日 木村 明裕に医院を正式に継承しました。


平成22年7月24日 創設者、木村 政美(76歳)永眠


平成23年 電子カルテ導入、CAVI検査・呼吸機能検査、
ホームページ開設、物忘れ外来開始、絶えず医療の進歩と共に。


平成24年 禁煙外来開始しました。

平成25年 医院リニューアルを機に、表記も診療科目などをよりわかりやすく、
「木村内科医院」から「きむら内科医院」へ変更いたしました。

前院長の思い出

人生の最期を自宅でむかえたいと願う患者さん、自宅で看取りたいと願うご家族の気持ちを思い24時間許す限り往診に対応しました。



前院長は自宅でアルコールを口にすることは一度もありませんでした。

現在のように救急体制も整ってなく、専門医制のない時代です。
当時の開業医はどんな患者さんにも対応しなければなりませんでした。
小児科、耳鼻科、眼科、やけどの処置、胃洗浄、腹水穿刺、腰椎穿刺など
事故を起こしてはと、不安との戦いでもありました。

何より誇れることは開業40年間無事故であったこと。スタッフ一丸となって頑張った成果と感謝しています。
院長はいつも、「うちのスタッフは宝だ。」と嬉しそうに話していました。

毎年末は、市内の各病院に紹介入院していただいた患者さん達のお見舞いに行きました。
その後は定期往診の患者さんを一軒一軒訪ねました。そして最後に地元の神社に参拝して、帰宅する頃にはいつも除夜の鐘が鳴っていました。
永い間通院された患者様とのお別れには必ずスタッフが参列いたしました。

地元の皆さんと医院のスタッフ達が、彼を支え続けてくれました。

心に残る患者さん

悲しい思い出もたくさんありますが、嬉しい想い出もいっぱいあります。この場をお借りして、少しだけ話させてください。



開院当初は時代のせいか、喘息発作に苦しむ多くの患者さんがおられました。
診療所で一夜を明かした患者さんも少なくありませんでした。
大きな施設の病院の入退院をくり返し、何度も死のふちを彷徨い、
家族にまで最期の宣告をされた85歳の患者さん、
来院された当時の苦痛に耐える姿は忘れることができません。
ですが、医学の進歩で一変しました。その後、吸入ステロイドが開発され、
患者さんは現在、元気で余生を楽しんでおられます。がんばった甲斐がありました。

一人暮らしの老人の方たちの中には紹介先病院への入退院時など、ご家族に連絡しても迷惑 がられることがありました。私共スタッフで入院の準備を整え、家を片付け、
火元の確認をして鍵をかけて病院へ送り届けたことも、度々ありました。
時は高度経済成長期の日本でしたから、みんながもっと頑張ろうと無理をして、
少しだけ自分勝手になってしまった時代なのかもしれません。
院長が、「患者さんじゃなくて家族だ。」と言っていたのを思い出します。
一人暮らしの老人の定期往診に行くと、
待っていたのかのように院長の腕の中で息をひきとった患者さんも何人かおられました。
信頼されるという重責を感じました。

震災の頃にも、たくさんありました。
腹痛を訴える深夜の往診で子宮外妊娠と診断し、震災で全壊した先輩の相信病院でしか
対応することができず、なんとか運び込み辛うじて救命できた患者さんもありました。


転居されても弱った身体を押して、明石から来てくださった老夫婦の患者さん。
夜間診療を終えて明石までお送りしました。1998年開通した明石海峡大橋の七色に輝く
ネオンの明かりに疲れも癒されました。


夜間診療が終わってから、ご家族から電話で、玄関を開けた途端に大量に喀血で意識不明とのこと。
急遽、処置室まで戻っていただいて、血管確保して救急車で中央市民病院に搬送し救命するできまことがした。
あれから20年、その患者さんは元気に、ご夫婦で通院していらっしゃいます。あの時、慌てたご主人が身内の方々に
「家内が死んだ…」と電話で叫んでおられましたが、今では笑い話になっています。とても愛らしいご夫婦です。

もうひとつ、夜間診療終了後の出来事。服薬後に母の様子がおかしいとの電話があり、
来院されましたが、すでに瞳孔は散大、血圧測定不能、意識消失状態。酸素吸入、
血管確保して救急車要請しました。必死で「お母さん…」と呼ぶ息子さんの声に突然、
「折角きれいなお花畑を歩いていたのにあんたが呼ぶから」と目を覚まされたのです。
その後この患者さんは大病されることなく98歳の長寿を全うされました。
よく耳にしそうな不思議な話ですが、私には嬉しい想い出です。

この患者さんには後日談があります。
先代院長の仏前にお参りしてくださったお嫁さんが「あの時、木村先生がお姑さんを
助けてくださらなかったら私は嫁姑戦争も知らずにすんだのに先生を恨みますよ」と
笑いながら手を合わせてくださいました。
そこには今は懐かしい日本の美しい風景がありました。
とてもとても、あたたかい心を感じました。

先代が研修医時代から、そして、きむら内科医院開院第一号の女性の患者さん(85歳)は今も遠路、東灘区から
車で40分かけて通院してくださっています。「木村先生は家族全員の命の恩人です。」と心から感謝してくださり、
継承後もずっと信頼をいただいています。長いお付き合いの中では、急性肺炎で高熱の中、苦痛を抑えてお孫さんの運転で
来院されたこともありました。大病をなさったこともありましたが、今は優しいお孫さん達に囲まれて
幸せに美しく年を重ねていらっしゃいます。とても嬉しいことです。


開院当時は、年の瀬になると白川の里の患者さん達からつきたてのお餅が届けられ、
毎日毎日、満員の患者さんの診療に追われていたスタッフを大いに
喜ばせてくださいました。おいしいお餅とスタッフの笑顔。これも、嬉しい想い出です。
今は高齢化が進み、この里から餅つきの杵の音が聞こえることはなくなりました。

朝、玄関を開けると採れたての美味しい苺、掘ったばかりの土の付いた筍、
四季折々の新鮮な野菜の数々、新米などがどっさり置かれていたのも、
きむら内科医院40年の、懐かしい、嬉しい想い出です。